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障害を受け止めることをめぐって 神山来地さんと小学生T君の意見。

 通信制の高校生、神山来地さんが、最近考えたこととして、「障害の受容」をめぐって意見を述べました。
 
 障害の受容という言葉がありますが、障害の受容をする前に僕たちは僕たちのことを本当に受容して欲しいと思っています。僕たちが受け止めろと言われている障害とは他人が作った偽りの姿ですからそれを受け止めることなどできるはずがありません。絶対に必要なことは僕たちの隠された本当の姿を社会の側に受け止めてもらうことです。だから、障害の受容などと安易には言ってほしくないし言うべきではないと僕は思います。
 自閉症という障害だって人の心がわからないというそんなことを言った人のことを疑わざるをえないような偽りの形なのですから、自閉症を受け入れるなどと絶対に言うべきではありません。まだまだ本当の障害とはなんなのか明らかにさえなっていないのだから、まずは、僕たちの本当の姿を知るべきだと思います。


 この意見の直前に、小学部2年生のT君が、次のような意見を述べていました。

僕は、視点という言葉について考えました。自閉症児は、他人の視点に立つことが苦手だと言われていますが、僕は他人の立場に立ってほしいのは先生たちの方です。もっと子どもの視点に立ってほしいです。

 自閉症の人は、他人の立場に立つことがむずかしいというのは、「心の理論」仮説として、よく語られるものですが、これは、自閉症の子どもは人の心がわからないというような言い方まで生むことがあり、多くの自閉症の方がこのことについて不満を語っています。このことについては、別の場所で述べてきたし、また、場を改めてということになりますが、自閉症に対する大きな誤解がまかり通っており、それに対するT君の反論でした。


共育フェスティバルのお知らせ

 10月28日に大学の共育フェスティバルで、きんこんの会のメンバーの詩や絵画、歌などを中心とした展示を行います。当事者のトークショーも予定しております。どうぞ、おいでください。
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津久井やまゆり園の事件について 2018年8月7日

 毎日新聞の神奈川版で取り上げられらた津久井やまゆり園での指筆談のことをめぐって、大学によくおいでになる小古間さんの意見を聞いた。

 〖やまゆり園のこと、これから〗________
 私達の言葉の取り組みの成果とも云える出来事がありました。
それは、津久井やまゆり園でも筆談という方法について検討が始まったということです。
2年の間、私達はやまゆり園の事件について考え続けてきました。きんこんの会では、やまゆり園の当事者に会ったことなどついてはあまり触れずにきましたが、新聞の掲載をきっかけにして私達も堂々とやまゆりの仲間と云う言葉を使える時が来たと感じています。
だから、ここからさらに歩みを進めて、亡くなった人達もまた豊かな言葉の世界をお持ちだったと云う事実を世界に訴えていきたいと思います。

社会に出るにあたって  曽我晴信さんの言葉

    「社会に出るにあたって」 
                       曽我晴信

 僕はとうとう学校を卒業して社会人になることになりましたが、社会人といっても、経済的には何一つ自立もしていないし、生活のほとんど全てを誰かの介護に頼るというものです。
 でも、僕はこのような生活にとても深い意味を感じていて、僕のような全てを誰かに委ねなければ生きられないような存在をきちんと認められる社会こそが、理想の社会であるということの生きた証しのようなものなので、とても存在することに対して深い意味を感じています。
 僕が社会に出たことのもう一つの意味は、こんな僕が一人の人間として生きる意味を社会に堂々とアピールする役割を持っているということです。 僕が社会の中で生きていく意味を明らかにするためには、こうして僕にも普通の言葉が備わっているということを明らかにしなくてはなりませんが、今はまだそのことを信じてくれる人が少なくて、困っているのですが、だからこそ、その問題に僕は僕なりに一生懸命取り組んでみたいと思っています。
 身体も不自由で歩くことも自分で食事をすることも困難で、その上、目もほとんど見えていないのですから、こんな重度の障害者にも、当たり前に言葉があることが示されれば、ほとんどどんな障害があっても、人は皆、人として豊かな言葉の世界を生きていることを証明できるに違いありません。
 そして社会をいつか変えることができたら、僕はそのとき初めて自分自身に向かって、僕はやっぱり生きることについて本当の使命を神様からもらっていたのだと自覚することになると思います。
 社会に出るなどと言っても、通所先と家庭の往復で終わってしまうかもしれませんが、できるだけ一歩ずつ社会に溶け込めるよう頑張るつもりです。

梅の香りの悲しみ 曽我晴信さんの詩

     「梅の香りの悲しみ」
                          曽我晴信

 春が来たというのに、浮かない顔の人が静かに梅の花を眺めている。
 梅の花びらからほんのりとかおる香りの中に、その人は七年前の早春を思うかのようだった。
 七年前のこの頃にたくさんの人が大きな津波に呑まれてしまったから、それ以来、春が来るのが怖くなってしまったのだろう。
 僕もこの七年の間、毎年春が来る度に、悲しみと共に梅の香りを嗅ぐようになった。ほのかな梅の香りは、何もなければ、待ち焦がれた春を先取りする香りだったに違いないのだけれど、あれ以来、梅の香りには悲しみが籠るようになってしまった。
 僕はきっと人生とはこうした悲しみを静かに静かに耐えることから深い意味が生まれてくるものなのだと思う。
 一昨年の夏以来、あの純粋無垢な山百合の花に悲しみが籠ってしまったように。
 でもそこから人はまた立ち上がらなければならないことを僕は知っている。
 僕が生まれたときに咲いていた花は何だったのだろうか。その花を見て悲しみを覚えた人もいたかもしれない。
 しかし、僕はそこから一人静かに生きる意味を紡いてきたから、悲しみは一つの始まりなのだとも言えるかもしれない。
プロフィール

柴田保之

Author:柴田保之
所属:國學院大學人間開発学部初等教育学科
重度重複障害児の教育、知的障害者の社会教育、介助つきコミュニケーションについて実践的に研究を進めています。

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