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津久井やまゆり園の事件について 2018年7月31日

  滋賀県の小学生N君が、「未来の会」という会を作って、「自閉症」と呼ばれる子どもたちを中心にして、年に1,2度私の大学で話し合いの会を持っている。その中で、彼は、以下の文章を書き取ってほしいということで、伝えてきた。

  やまゆり園の亡くなった人たちへ

言葉があることさえ誰にも知られないまま亡くなった19人のみなさんの無念の思いを、僕は一生懸命この胸に引き受けようとして、この2年間を生きてきた。美しいゆりの花を泥のついた靴でふみにじった男もまた心に深い傷を持っていたことはよくわかっているが、少なくとも男は自分の傷を世の中の人に伝えることができていやされているにちがいないけれど、男のようにいやされていない魂が僕には毎夜毎夜悲痛なうめき声のように聞こえてくる気がする。一日でも速く19人の魂がやすらぎをえられるよう、僕は今日も祈り続けている。

津久井やまゆり園の事件について 2018年7月17日

 2年前、津久井やまゆり園の事件の当日、研究室を訪れ、考えを述べた曽我さんが、事件から2年が来ようとしている7月17日、2つの詩を綴った。

  やまゆり

やまゆりよ永遠なれとぼくたちは2年間祈り続けてきたけれど
やまゆりには大切な使命があったのに
やまゆりの花はふみにじられてしまったから
やまゆりの永遠を祈るには誰かがその使命を引き受ける必要があるにちがいない
やまゆりの使命とはきっと美しく咲き続けるっことだっただろうから
僕達はその使命を引き受けることはむずかしい
だけど僕達にはやまゆりの使命を引き受けるかわりに
これから咲こうとするやまゆりの使命を守ることが必要なのだと気がついた


  2年前の夏から

2年前の暑い夏の日のことだった
やまゆりの花をぐちゃぐちゃに踏み荒らしてしまったどうもうな敏感な熊がいた
熊の好物ははちみつだから
はちみつになるみつを蓄えることのないやまゆりには
なんの興味もいだかなかったのだ
だがやまゆりの花がはちみつになるみつをたくわえていないことで
困ってしまうのは熊だけで
ほかの多くの虫も鳥も動物も
花の意味を疑うことなどけっしてありはしなかったのだ
やまゆりをふみあらした熊には
甘いみつを出す花だけが意味のある花だったから
やまゆりなどには価値を感じることはなかった
大きな大きな悲しみが山じゅうにあふれたから
山はすべての花に咲くことがないよう命令を出した
そのためもう2年もこの山では
やまゆりだけでなく他のすべての花が咲くことをやめてしまった
熊はいまでも自分のふみあらした花のことは
自分が正しかったと言い続けているが
本当のことが熊自身にわかるまで
ゆりの花だけでなく
ほかの花までも再び咲くことはない
私はまたこの山にすべての花が咲き誇るようにと
祈りを捧げるのみである
なぜ祈りが届かないのかと疑ってみても何も始まらないが
私は今日も祈ることをやめるつもりはない

毎日新聞の記事

yamayuri20180728
 7月28日の毎日新聞神奈川版に、やまゆり園における指筆談の実践のことが紹介されました。
 事件前より、やまゆり園の利用者さんがきんこんの会に参加されていたこと、やまゆり園でも指筆談が行われていたこと、そして、現在も取り組まれていることなどが、紹介されました。記者の堀さんは、やまゆり園の記事を何度も書いておられる方です。
 今、「意思決定支援」のことが大きな課題として語られています。そのことを考える時、指筆談は、大きな意味を持ちます。
 それは、意思を表現する手段としての意味を持つとともに、実は、亡くなられた方も含めて、植松被告の「意思疎通のできない」人という認識自体があやまったものであり、意思を持ち、豊かな言葉の世界を持つ方々であるという認識へとつらなるという意味で、大きな意味を持つものであると考えます。
 これまで、たくさんの当事者の言葉を紹介してまいりましたが、なかなか社会には届かないもどかしさを感じてまいりましたが、ようやく、その一歩が踏み出されたという思いです。
 まだまだ、先は長いと思いますが、できれば、やまゆり園の利用者の方々や職員さんとの連帯の道を探っていければと考えています。

 なお、これまで、私たちが事件以前からやまゆり園の利用者と出会っていたことや、事件後もやまゆり園にうかがって当事者の方と指筆談で話したことがあるというようなことは、園にご迷惑がかかってはいけないと思い、ふれずにまいりました。
 

繰り返し語られる犯人の言葉のおかしさ

 3月、京都で、小学生のMさんにお会いしました。その際、どうしても訴えたいこととして、以下のような言葉を託されました。

 私はあの事件以来あの犯人の言葉が繰り返し語られるのが、いちばんおかしいことだと思っています。あの言葉は、人が、疲れたときにぐちのようにして語ることはあっても一人のまともな人間が語るような言葉ではありませんが、まるで、一つの確立した意見のようになってしまって、それと私たちに意味があるという二つの意見の対立のように言われることさえ、私にはとても不愉快です。私のまわりには私に生きる意味があることに何の疑いも持たない人がたくさんいて、私の日々の暮らしを支え続けていますから、そんな二つの意見の対立ではありませんが、世の中の人にもそういう思いがあるのは私も認めないではないですが、それはあくまでそういう思いが湧くときもあるというものであって、一人の人間が自分の思想をかけて言うようなことではぜったいにありませんので、そこのところを世の中に私は訴えたいと思っています。
 私たちには生きる意味があると私たちが断言しただけでは、ちょっと弱いとは思いますが、私たちには生きる意味があると言って、私たちにかかわってくれるとても立派な人がちゃんといるということは、大きな声で言わなくてはいけないことだと思います。そういう人たちの中にこそ本当の人間性があることもまた大きな事実なので、そのことをしっかりテレビは見すえていただきたいと思います。あんな思いつきとか疲れたときのぐちのような言葉に一つの思想の位置を与えることは絶対におかしいので、人間を見誤るようなことなのでやめてほしいと思います。以上です。えらそうに見えるかもしれませんが、これは私たち当事者の共通の願いだと思っていますからよろしくお願いいたします。

相模原の事件をめぐって 2018年1月6日

  やまゆり園の事件をめぐる中学生のK君の思いである。彼に、そんなことはないとはいえないことに無力感を感じるが、このまま終わらせてはいけないと思う。

                      数十年後の誰かに

  僕がいちばん言いたいことは、なぜ僕たちの言葉のことがこんなにも無視され続けるのかと言うことです。そのまま僕たちの言葉のことがなかったかのように過ぎていくことがとてもつらくて僕たちにとってはとても悔しい日々が続いています。僕たちの言葉のことをどう訴えても届かないのは、僕たちの言葉に関する無理解が根本の原因だとは思いますが、僕たちの言葉の問題以上に、僕たちの存在に対する根本的な偏見が大きな問題だと思います。だから、僕たちは、この事件を通してどうしても存在を認めてもらえなければ、この事件は、新しい偏見が根付いてしまうきっかけとなってしまうのではないかと、とても不安でいっぱいです。何とかして、僕は僕たちの存在をきちんと認めてもらう社会が来てくれることを望まないではいられないのです。どうしてもこのまま過ぎていかざるをえないなら、何十年後かの誰かに気づいてもらうことをかすかな望みとしていだくしかないのですが、そのまま過ぎていくということは、大きな障害者理解の後退なので、僕は、非常に寂しい時代が到来したと思わずにはいられません。唯一の希望は、今このことを数十年後の誰かに呼んでもらうために何とか文字として残すことができるということだけです。
プロフィール

柴田保之

Author:柴田保之
所属:國學院大學人間開発学部初等教育学科
重度重複障害児の教育、知的障害者の社会教育、介助つきコミュニケーションについて実践的に研究を進めています。

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