相模原の事件をめぐって 2018年1月6日

  やまゆり園の事件をめぐる中学生のK君の思いである。彼に、そんなことはないとはいえないことに無力感を感じるが、このまま終わらせてはいけないと思う。

                      数十年後の誰かに

  僕がいちばん言いたいことは、なぜ僕たちの言葉のことがこんなにも無視され続けるのかと言うことです。そのまま僕たちの言葉のことがなかったかのように過ぎていくことがとてもつらくて僕たちにとってはとても悔しい日々が続いています。僕たちの言葉のことをどう訴えても届かないのは、僕たちの言葉に関する無理解が根本の原因だとは思いますが、僕たちの言葉の問題以上に、僕たちの存在に対する根本的な偏見が大きな問題だと思います。だから、僕たちは、この事件を通してどうしても存在を認めてもらえなければ、この事件は、新しい偏見が根付いてしまうきっかけとなってしまうのではないかと、とても不安でいっぱいです。何とかして、僕は僕たちの存在をきちんと認めてもらう社会が来てくれることを望まないではいられないのです。どうしてもこのまま過ぎていかざるをえないなら、何十年後かの誰かに気づいてもらうことをかすかな望みとしていだくしかないのですが、そのまま過ぎていくということは、大きな障害者理解の後退なので、僕は、非常に寂しい時代が到来したと思わずにはいられません。唯一の希望は、今このことを数十年後の誰かに呼んでもらうために何とか文字として残すことができるということだけです。

相模原の事件をめぐって 12月26日

 年末に、久しぶりにお会いした広瀬岳さんの、やまゆり園に関する言葉です。

 会いたいと思っていたのはやまゆり園のことが話したかったからです。長い時間が経過しましたがまだ何一つ解決していないなか建て替えなどの話だけが進行してしまいほんとうにはがゆいです。ずっと理想だけが必要なのは当然ですが無惨になくなった仲間の存在がどこかに置き去りにされていてとても悔しいです。
 人間だからわざわざ山奥の施設に行きたいとは思わないだろうけれど無惨にどこかに追いやられるよりは仲間と過ごした日々をもう一度回復したいと思うのが人として当たり前の感情ではないかと思うのです。
 分はもういいという気持ちです。何とかしてこうした考えを伝えたいです。私たちの考えはまだまだ伝わりませんが言うべきことだけは言っておきたいです。
 私たちを人として認めないまま世の中は訳のわからない方向に進んでいるのでよい社会を作るためにも声を上げたいです。
 留守番という言葉がありますがまさに今僕たちはみんなから置いてきぼりにされた留守番のような気持です。
 理解できないのは何もわからないという言葉が一人歩きを始めて世の中がいちだんと僕たちを排除し始めたことです。すっかり共生社会は絵に描いた餅になってしまいました。だから施設はどんどん人手不足が進行していてゆゆしい事態になっています。
 早く元通りにしなくては手遅れになりそうです。悩みは深まる一方です。理解者がほしいです。

 分相応だからがまんしろという言葉が増えた気がするのをどうしても受け入れがたくて勇気を出して訴えたいのは世の中は僕たちをなしでは混迷を深めていくだろうということです。未来の日本は僕たちがいてこそ明るいはずです。びっくりすることですが障害者の存在によって世の中は思いやる心を維持できているのです。それだからこそ僕たちは存在価値があるはずです。
 何度も何度も繰り返してきたことですが僕たちの人生こそが生きる価値を持っていることは当然ですがすべての人間にも生きる価値があります。そのことがもう一度理解されないととても理想の社会は来ません。

相模原の事件をめぐって 2017年8月2日 やまゆり園の仲間たちにささげる俳句

 20代の女性が、やまゆり園の事件から1年経って、寄せた俳句です。

やまゆり園の仲間たちにささげる俳句
 
君たちは心の百合と消え行けり
百合なれば気高きものを無残なり
百合揺れる悲しみ数える指のごと
百合なれば気高きものを哀れなり
百合一輪髪にかざしてひとり泣く
涙かれ百合をたむけて合掌す
見守られ天にのぼりし百合の魂
まぶた閉じ短き命見すえたり
咲き乱るる山ゆりの道ひとり行く
山ゆりの咲き乱れたる我が心
山ゆりの魂迷わす世間なり
山ゆりを何故踏みしだく世の迷い
山ゆりをひたむきにただ生き抜きし
山ゆりをたおりたる手汚れたり
私にも山ゆりのごとき心あり
山ゆりをひたむきに思うひとりきり
山ゆりをひたむきにただ涙かな
うるわしき山ゆりをただもう一度
山ゆりは悲しき響きまといたり
ひととせを山ゆりとともに歩みたり
山ゆりが再び清くなる日待ち
空高く山ゆりのぼり魂を
空高く共にのぼりし山ゆりよ
汚れたる手を今一度清くせよ
ずくずくにぬかるみし地よ再生を
我が大地ぬかるみしままひととせを
ぬかるみし大地再び百合咲けと
我が言葉ぬかるむ地面に吸い込まれ
空しきは我らに言葉無きと言う
心には豊かに言葉育める
大地また百合を育てよ我祈り
心には思い秘めたる亡き仲間
亡き仲間秘めたる言葉知られずに
紫陽花も山ゆりの花悲しむか

相模原の事件をめぐって 2017年8月2日 

 やまゆり園の事件から1年が経った2017年8月2日、20代の女性が次の言葉を綴りました。
 
    《やまゆり園の事件から1年を経過して》

 私たちは言葉があるにもかかわらず、ずっと言葉もなければ何もわかっていない人間としてずっと蔑まれてきました。
やまゆり園の事件ではあからさまにその事が世間にオープンにされたような気がしています。
 1年という長い時間をかけて、世の中がいったい何をこの事件から学び取ったかということについて、私たちはほとんど絶望に近い悶々とした思いを抱いています。
 世の中の良識はどんな命も平等だと言ってくれましたが、私たちの本当の姿は、事件の前と何一つ変わっておらず、亡くなった人達も何も分からない人間として報道され続けています。
私たちは長い時間をかけてこのことを訴えればいいのかもしれませんが、亡くなった人達がそのような誤った認識のまま歴史の闇の中に消え去ってしまうことは、耐えられないものがあります。
 だから、私たちは大きな声でこの一年間「私たちには言葉がある」と叫び続けてきました。
 しかしその声は空しくかき消されるばかりです。
 だから改めて一年が経過したこの時点で、もう一度大きな叫び声を上げたいと思います。
亡くなった顔も知らない仲間たちも、私と同じような障害を持っていたのは間違いないことで、私にはまるで昨日まで一緒に時間を共にしてきた仲間のように感じられるのです。
 この私の叫び声は、親しい仲間を失った叫び声として聞いてほしいと思います。
 私が一年を経過して強く思うことは、残されたやまゆり園の仲間たちの意見も、きちんと取り上げられていないということです。どうしても地域でという意見が正論として出てくることは私も正しいことと思います。
 でも、今回の事件に関する限り仲間たちと共に暮らした時間を犯人によって切り裂かれたわけですから、もう一度事件の前の時間に戻って、そこで仲間たちを追悼したいと思うのはむしろ自然なことではないでしょうか?少なくても私ならそうしたいと思います。
 何も事件がなかったなら、徐々に幸せな形で地域へと移行していくことはとても良いことだったと思いますが、結局事件があったからこんな議論が起こってきているわけですから、反省するべきは事件の前にそのことを問題にできなかったことではないでしょうか?
 だからこの件に関する限り、正論とは別に施設の仲間の意見を最優先にして欲しいです。

津久井やまゆり園事件についてのシンポジウム記録

 昨年11月に開催した第2回介助つきコミュニケーション研究会で行われた津久井やまゆり園の事件についてのシンポジウムの記録を下記URLに掲載しました。ぜひ、ご一読ください。

 http://yshibata.info/yamayurisympo.pdf