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津久井やまゆり園の事件をめぐって

 2月上旬、特別支援学校の高校生が、津久井やまゆり園の事件の裁判をめぐって、次のように述べました。年明けから始まった裁判をめぐる一連の報道を受けて感じたことです。

 私は年が明けてから津久井やまゆり園の事件の裁判が始まった時から、とても心に引っかかっていることがあります。それは犯人の生産性という言葉でした。私たちは生産性はあまりないけれど、それが人間の価値とどうつながるのだろうと言われているような気がしたので、改めて人間の価値と生産性について考えてみたのですが、私は生産性は、人間の中で確かに大切なことかもしれないけれど、人の本当の価値とはあまり関係がないのではないかと思うようになりました。私も作業はいくらかできますが、私よりももっと上手な人もいれば、私よりももう少し上手に作業のできない人もいるけれど、上手にできる人もあまり上手にできない人も、みんな大切な仲間だということに気がついて、やっぱり生産性は私たちにとって、人の価値を決めることとは関係がないということに気がつきました。
 でもじゃあ私たちの価値って何なのかと思ったときに、それは人と人とがともに支え合うところにあるのではないかと思いました。私たちは、作業ができる人もできない人も大切な仲間としていつも支え合って生きています。だから私たちの価値を決めるものはやはり、人と人とが支え合うということではないかと思います。
 今回のニュースでとっても気になるのは、そのことを紹介しているアナウンサーも生産性がないこと自体にとてもとまどっているように見えることです。生産性がなくたって大丈夫、人は人と支え合うことにこそ価値があるのだから、犯人は何ということを言っているのでしょうねえと、ばっさり言ってくれればすむことなのに、誰もそのことは言わないから、やっぱり生産性のない人は、人間としては劣っているけれど、人間は劣っている人も大事にするぐらい偉大な存在だから、私たちのような荷物の存在も、ちゃんと生かしてあげているのよというふうな、私たちからするととても上からのものの言い方に聞こえてくるので、それはちがうのではないかというふうに思うようになりました。だから、私は、自分の人生を、仲間とともに支え合うことで大切な価値を実際に行動として生きていく人生を生きていきたいなあと思うようになりました。そうやって私たちがともに支え合うことことそ、人間の生きる価値なんだということを実際に行動で示せば、世の中の人にもそのことが伝わって、社会はもっとよくなっていくのではないかと、そんなふうに思うようになりました。

津久井やまゆり園事件の判決を受けて

 3月下旬に、やまゆり園の判決を受けて、20代の情勢がこのような意見が述べました。
 大切なことがもっと明らかにされるべきであったのに、残念ながら、裁判も終了し、刑も確定し私も、空虚さを強く感じます。


        津久井やまゆり園事件の判決を受けて

 私はコロナウィルスのことも大変気がかりですが、今一番心を占めているのはやはり、「津久井やまゆり園事件」判決のことです。
 私がとても残念に思うのは、そもそも死刑制度には反対なので、更生の道があり、かつ更生しなければならない立場である犯人の命が、ただ復讐のようにして奪われるということです。
 復讐というとご家族には大変申し訳ないのですが、ご家族が犯人を恨む気持ちはあまりにも当然のことなのですが、本当は恨む気持ちを存分に犯人に投げつける時間がとられさえすれば、気持ちのいくらかは晴れるのではないかと私は思っているので、犯人とご家族があたり前に話せる場所と時間をたっぷりと設定することこそ必要なのではないかと思っています。死刑は「あなたは生きる価値がない」という意味が入ってしまうのでどうしても私は受け入れることができません。
 この事件の報道で最初から問題だったのは、犯人の未熟な考えを繰り返し伝えながら、もっともらしい解釈をしようと試みたところにあると思っているのですが、今回裁判で初めてご家族の深い思いがたくさん語られたにも関わらず、その言葉をていねいに読み解こうとする人はほとんどいませんでした。私たちからすると犯人の未熟な言葉よりも、ご家族の深い言葉の方に真実が宿っているように思えるのですが、どうやら社会はご家族の言葉をかわいそうな人たちの言葉だとあっさりと片づけてしまったように思えてなりません。私たちがじかに話せれば良かったのかもしれませんが、まだそのような時代は来ていない代わりに、私たちの言いたいことはほとんどすべてご家族によってきちんと語られていたと思います。唯一付け加えられるべきことがあるとするなら、それは、亡くなった人たちにもあたり前に言葉があったのだということのみです。
 犯人に対する最大の疑問は、あなたの考えが社会に対して中途半端な考えを植えつけるきっかけになったことを本当に理解しているのか? ということです。社会は犯人の言葉を聞いて、言葉のないとされる障害者の生きる意味や価値に対して、自信をもって「ある」と言えなくなったのですが、社会はそんな存在でもやっぱり動物ではなく人間なのだと考えるから、殺すことは許されないという結論に、暗黙の裡になってしまったと思うのですが、それは全くの誤りで、本当はご家族の言葉の中にあるように、共に生きることを通して、人はその存在の意味や価値を心の底から感じることのできる存在だということが示されているのを、犯人も含めて社会も気がつけなかったことになるでしょう。

津久井やまゆり園のこと

明日は、津久井やまゆり園での傾聴ボランティアの日である。様々な思いがこみ上げてならない。
 事件前から、知り合いだった職員さんと数名の利用者さんを通じて私が知っていた津久井やまゆり園はそのほんの一部に過ぎないし、今、私がボランティアを通じて肌で感じる津久井やまゆり園も、点のような経験に過ぎない。しかし、今、神奈川県知事の発言をきっかけに広がり始めているイメージとは、大きく異なっている。
 わざわざ私の大学のきんこんの会にまで、施設の職員さんが、ただ気持ちを聞きたいからと利用者をお連れして訪問された姿、その後、懸命に筆談を習得され、ホームでのささやかな語らいが始まったことを知らせていただいたこと、事件のあと、みんなで懸命に、利用者の方々と困難を乗り越えようと気持ちを寄せ合っているとお知らせいただいたことなど、どれもが、私にとっては、胸を揺さぶるものだった。
 そして、新たに意思決定支援の取り組みの一環として、筆談のことをテーマに取り組んだことがきっかけで、ボランティアに伺うようになり、たくさんの職員さんと利用者の方々が、頑張っている姿にも接している。
 午前中の活動の終わりに、歌とギターの上手な職員さんが園歌を歌うことがある。津久井の風景を織り込んだ歌を聞く利用者さんたちは、きっとこの仮住まいから、早くもとの場所の暮らしに戻りたいという気持ちで聞いているだろうと思う。それは、単なる私の想像ではない。私が利用者さんから聞き取った気持ちから思うことだ。
 職員さんのことを思っても、利用者さんのことを思っても、神奈川県知事の発言によって引き起こされた議論を耳にすると胸が痛くてたまらない。
 客観的な議論は大切だが、私のような見方もあることは、どうにかして伝えたい。

津久井やまゆり園事件の裁判の開始に際して思うこと

 きんこんの会会長の大野剛資さんから、いただいたメッセージを掲載させていただきます。

 いよいよ植松被告の裁判が始まりました。
 あまり難しいことは解りませんが、僕なりに裁判について考えることがあります。
 被害者の家族や有識者と言われる人やマスコミでの扱いや論議などに加えての障害当事者としての僕なりの考え方です。
 2点あります。
 一つは、裁判で亡くなった方や怪我をした方を匿名で呼ぶことに関してです。
 一人だけお母様が、「娘は、甲でも乙でもなく、美帆です」と申し出た方がいました。僕は、美帆さんのお母様は正しいと思うし、「物」ではなく「人間」です。当然人格があります。亡くなってまで人として認められないことは、悲しいし、悔しいです。
 それぞれの犠牲者が一生懸命生きてきた「証」を踏みにじる行為だと僕は思います。遺族の意向がありますが、「障害者を身内に持ったことを隠したい」と言う意識が何処かにあって、氏名を公表しないのかなとも思います。
 2つ目は「どうしたら、障害者差別をなくすことができるのか?
 植松被告のように考える人も世間にはいるかもしれないし、事件をきっかけにそのような考えを持つ人が現れて、同じような事が起きないとも限らない」という事に関しては、もっともなことです「話のできない人は生産性もなく、生きている価値が無い」という植松被告のような考えは、間違っているということに関しての議論はあり、批判は当然です。
 でも、そこでもう一歩前に進めて「話ができない、発語ができない人達は、自分の意思や考えを持っていないかと言うとそうではなく、きちんとした自分なりの歳相応の考えを持ち、生きてきたその人なりの歴史がある」との論調にならないのが、とても残念です。
 「きんこんの会」で長年取り組んできて、多くの言葉を持たない人達が、周りとコミュニケーションを取れるようになったこと、また「きんこんの会」から、全国でこの取り組みが広がっていったことをもっと知ってもらいたいです。裁判が始まったことをきっかけにあらゆる所で、一歩進んだ議論と実践がされることを望みます。
                                       大野 剛資

ニュージーランド首相の演説と津久井やまゆり園事件

 ニュージーランドのアーダーン首相は、あのおぞましいテロ事件について、次のように語った。「私がかれの名前を口にするのを皆さんが聞くことは決してないだろう。かれはテロリストであり、犯罪者であり、過激主義者だが、私が話す時は名前で呼ばない。皆さんも命を奪った者ではなく、奪われた人々の名前を語ってほしい。あの男は悪名をはせようとしたのかもしれないが、我々ニュージーランド人はかれに何ひとつ与えない。名前さえも。」(CNNニュースサイトより)
 この言葉を発する首相のまなざしに一点の曇りもなく、この言葉が、心の底から発せられたものであることが伝わってきた。
 そして、この言葉を聞いた瞬間に、私の頭をよぎったのは、「津久井やまゆり園」の事件のことだった。
 私たちは、亡くなった人の名前を呼ぶこともできないまま、ただ、ひたすら犯人の名前を連呼した。
 そして、犯人の名前の連呼は、名前にとどまることなく、そのおぞましい考えを垂れ流すことにもつながっている。たとえ、引用符のかっこにくくられているとしても。私たちは、犯人の名前を呼ぶべきではなかったし、まして、その考えを伝えることなど、やすやすとすべきではなかったのだ。
 この日本でも、さすがにテロ行為の否定というコンセンサスは存在する。しかし、津久井やまゆり園の事件で亡くなった人たちの生きる意味や存在の価値、そして、本当は深い思索を宿した人たちであるという真実の姿について、いまだ明らかにされることはない。だから、私たちは、その真実を訴え続けることをやめてはいけないと思う。
プロフィール

柴田保之

Author:柴田保之
所属:國學院大學人間開発学部初等教育学科
重度重複障害児の教育、知的障害者の社会教育、介助つきコミュニケーションについて実践的に研究を進めています。

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