繰り返し語られる犯人の言葉のおかしさ

 3月、京都で、小学生のMさんにお会いしました。その際、どうしても訴えたいこととして、以下のような言葉を託されました。

 私はあの事件以来あの犯人の言葉が繰り返し語られるのが、いちばんおかしいことだと思っています。あの言葉は、人が、疲れたときにぐちのようにして語ることはあっても一人のまともな人間が語るような言葉ではありませんが、まるで、一つの確立した意見のようになってしまって、それと私たちに意味があるという二つの意見の対立のように言われることさえ、私にはとても不愉快です。私のまわりには私に生きる意味があることに何の疑いも持たない人がたくさんいて、私の日々の暮らしを支え続けていますから、そんな二つの意見の対立ではありませんが、世の中の人にもそういう思いがあるのは私も認めないではないですが、それはあくまでそういう思いが湧くときもあるというものであって、一人の人間が自分の思想をかけて言うようなことではぜったいにありませんので、そこのところを世の中に私は訴えたいと思っています。
 私たちには生きる意味があると私たちが断言しただけでは、ちょっと弱いとは思いますが、私たちには生きる意味があると言って、私たちにかかわってくれるとても立派な人がちゃんといるということは、大きな声で言わなくてはいけないことだと思います。そういう人たちの中にこそ本当の人間性があることもまた大きな事実なので、そのことをしっかりテレビは見すえていただきたいと思います。あんな思いつきとか疲れたときのぐちのような言葉に一つの思想の位置を与えることは絶対におかしいので、人間を見誤るようなことなのでやめてほしいと思います。以上です。えらそうに見えるかもしれませんが、これは私たち当事者の共通の願いだと思っていますからよろしくお願いいたします。

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プロフィール

柴田保之

Author:柴田保之
所属:國學院大學人間開発学部初等教育学科
重度重複障害児の教育、知的障害者の社会教育、介助つきコミュニケーションについて実践的に研究を進めています。

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