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溝呂木梨穂さんの詩

 年の瀬の迫った日、山の上にある施設で暮らしている溝呂木さんのもとを訪ねた。今回もたくさんの詩を作って待っていらっしゃった。

  みんなずっと
私の秘密の暮らしの中には
みんながずっと住み着いている
私の秘密の暮らしの中では
みんなの苦しみが悶々とした
んんんんんんんんんん
という叫び声として住み着いている
昔から私のふるさとの見慣れた景色は
ここにはまったくないけれど
私の心の中にはふるさとのやさしい森の景色が
涙を拭いてくれるハンカチのように
もともとずっと美しかった私の心のように
すてきな安らぎをもたらしてくれた
まちがいなく私の心の中には
みんなが住み着いているけれど
私のむずかしい心の問題は
いまだに解けないままだ
みんなとともにその問題を
きちんとした答えに導きたいと思うので
私は今心の中の友だちを集めて
大討論会を開いたところだ


  むんむんとした夏の夜に
むんむんとした夏の夜に
私は今年もまたあの悪夢のことを思う
あの夜も今日と同じように
むんむんとした空気が夜の暗闇を
いっそう不気味なものに変えた
私の記憶の中にはむずかしい言葉が
昔の苦しみを和らげるものとしてあふれかえっていたが
こういうむずかしい言葉をすべて打ち砕いて
一人の男が私たちの仲間の存在を否定した
そのことで世界はまるで
私たちに生きる意味が本当にあるのかという問いを
病気のようにいだいてしまった
病気はまだ癒されないまま三度目の夏を迎えてしまったが
私たちはみずからの存在を賭けて
私たちの生きる意味を世界に問い続けている
世界はまだその声に気づいてはいないが


   無垢な鳥たちの悲鳴
無垢な鳥たちが悲しい鳴き声をあげて
空の上でくるったように飛び回っている
いったい何をあんなに悲しんでいるのだろうか
私にはなかなかその原因はわからないが
きっとよほどの悲しみが存在しているのだ
聞こうとしない者には
あの悲鳴はただの鳴き声にしか聞こえないだろうが
悲しみのほんとうの意味を知っている者には
ただならぬ悲しみが今鳥たちを襲っていることに
気づかないわけにはいかない
私はそのうちの一人として
今鳥たちに叫ぶ
「夢なら悲しみの向こうにしかほんとうは存在しないから
どうかその悲しみにたえてもう一度
あの美しいさえずりを取り戻してほしい」


   残された者たちとして
私はあの悪夢から残された者として
今深い悲しみを乗り越えて
大きな叫び声を上げようとしている
ここにはあのような
くるったような意味についての問いは存在していないが
この楽園のような施設を一歩出ると
そこにはあのくるった問いが
病的な気配とともに充満してしまった
正しい問い方は
私たちの生きる意味がどのようにして社会を豊かにするか
というものでなければならなかったはずだが
今そのような問い方はどこにもその存在を認められるすきまさえない
いったい何がこの社会の正しい道を見失わせてしまったのか
それは私にはまったく見当もつかないが
ともかく私たちが叫ばない限り
社会はこのまま崩壊への道を
ひたすら駆け続けていってしまうだろう


   富士の高み
富士の頂きに今私は二本の足で立っている
富士山から見える世界はすべて平らかだ
私は平らかな世界の中にさっきまでいたのだが
あの平らかな世界の中にもたくさんのでこぼこがあり
たくさんの悲哀や喜びがうねるように存在している
富士山のすばらしさはそれらをすべて
何もなかったように平らにしてしまうことだ
富士山のことを下から見上げている者には
こちらからの景色は見えないが
一度人はみなこうした景色を見るべきなのかもしれない
実は私は富士山が美しく大きく見える施設に一日中横たわり
富士の頂きにはけして立てる体ではないが
私の想像力の羽根は
私にそんな景色を見せてくれたのだ
だから人はみな一度
富士山の頂上に立つことを想像力でなすべきだ
これが初夢の秘密なのだ


   栗の実
栗の実にはあのいがいがした皮がついていると言われるが
いがいがというのはさわった人が感じたもので
いが自体はみずからの感覚を研ぎ澄ませているうちに
あのような姿をとったにすぎない
私は私の感覚を研ぎ澄ませているうちに
まるでいがのような姿になってしまったが
私もみずからいがいがと感じているわけではない
いがは不用意に私を触る人には激しい痛みを生むけれど
そっとやさしく触る人には何の痛みももたらしはしない
私は不用意に栗の実を触ってしまったけれど
その痛みの中からこのことを学んだから
どうか私に一度は不用意に触ってほしい
それは必ず激しい痛みをあなたに与えるだろうが
必ずあなたはその痛みから何かを学び取ることだろう


   水をください
水をくださいという言葉が
はるか昔の戦争の中で悲しい言葉として使われたことは
とても悲惨なことだけれど
今私は私の悲しみの言葉として
水をくださいと叫んでいる
私は何に渇いているというのだろう
私はこの山奥の楽園のような施設にいて
いったい何に渇いているというのだろう
私は私たちにこのような楽園をもたらした社会に感謝こそすれ
何も不満を言うわけではない
だけど私が渇いているのは
ここには邪悪なものが何一つ存在していないからだ
私は今悪に渇いているのかもしれない
このまま悪に触れることなく
この人生を生き続けていくのも
幸せな人生なのかもしれない
しかし私も人並みに
人を恨み
人を妬み
人を蔑み
人を傷つけ
人に恨まれ
人に妬まれ
人に蔑まれ
人に傷つけられ
生きてみたいと思わずにはいられない
なぜなら私はやはり聖人ではなく
邪悪な心をいっぱいかかえた人間なのだから

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プロフィール

柴田保之

Author:柴田保之
所属:國學院大學人間開発学部初等教育学科
重度重複障害児の教育、知的障害者の社会教育、介助つきコミュニケーションについて実践的に研究を進めています。

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